ガイドマップ

自然と歴史が豊かな秋津野を探索して下さい。

奇絶峡(県立自然公園)
春は桜の名所として親しまれ、約500本の桜が渓谷を彩ります。また、初夏の新緑は人々に安らぎを与えます。夏になると涼を求めて家族連れや子どもたちが訪れ、水遊びをする歓声がこだまします。秋には高尾山、三星山、龍神山のハイキング登山の拠点として史跡巡りや景勝が楽しめ、晩秋には紅葉が渓谷や岩肌を鮮やかに染め上げます。
奇絶峡(県立自然公園)
奇絶峡の不動の滝の上に、巨大な一枚岩(高さ16m、幅22m)に堂本印象画伯の原画を基に厚肉彫りの彫刻がされました。
中央の阿弥陀仏は、高さ7.3m(奈良の大仏の約半分)、両菩薩(観世音菩薩、勢至菩薩)は4.9mあります。
龍神山~竜神宮
龍神宮は弘法大師がいたと伝えられる霊所で、標高500mの山の頂にあります。神木であるウバメガシは樹齢約400年と推定され、単独で生育しているウバメガシとしては大変貴重で、和歌山県と田辺市の天然記念物に指定されています。
高尾山(たかおやま)
標高606mの高尾山は、田辺市全域から仰ぎ見ることができ、市民から親しまれています。その姿は雄大で、元旦の御来光登山は有名。四季を通して訪れる人々のために、山頂近くにはトイレや芝生広場、ログハウスなども設けられています。3月には高尾山登山イベントも開かれています。
高尾山経塚塔
高尾山寺屋敷で出土した経塚発掘を記念して、昭和11年4月20日に建立されました。現在の塔は、昭和63年秋、自然倒壊した塔を地元民やその他多くの人々の力添えによって再建されたものです。
千光寺の寺屋敷と経塚
高尾山廃寺(寺屋敷跡)は、今から約1,200年前に和気清麻呂が愛用していた鷹の死を弔うために千光寺を建立したと伝えられています。七堂伽藍を有する立派な寺で、当時修験本尊は千手観音で行基菩薩の作と伝えられ、寺の鎮守の神として愛宕山大権現が祀られていました。この寺屋敷跡から昭和6年、中山雲表氏によって三つの経塚が発掘されました。当時出土した鏡面や装飾具などは、現在東京国立博物館に保存、展示されています。
川上神社
戦国時代、河内の国野村の郷に住んでいた野村久太夫好久が、佐賀県佐賀郡川上村に祀られていた河上神社から分霊してもらい、川中口にお祀りしたのが始まりです。祭神は、瀬織津姫と、速秋津日子と速秋津日女。速秋津日子、速秋津日女は秋津を拓いたご先祖です。秋の大祭は毎年11月23日。
市杵神社
市杵島姫をお祀りした社。弁天さんともいわれています。社は古くから下畑にあり、愛洲資俊が鷹の巣城を築くとき自家の氏神として尊拝した宮です。天正13年(1585)秀吉の紀州攻めにより、愛洲氏から杉若氏に替わった時代がこの神社の最も栄えた時代です。
中宮神社
衣笠城主によって建立されたもので、当初野久保の地にあり、この地が高尾山の千光寺と衣笠城の中間に当たるところから「中の宮」と称しました。ところが、元和年間山崩れで広大な社地、社殿を失ってしまいました。わずかに残った現在地に仮宮を建てていましたが、明治21年拝殿を新築し、昭和3年に鳥居が建てられました。中宮神社の祭神は、伊弉冊尊と言われ、古来、愛宕山大権現と称してきました。もともとは和気清麻呂公が京都より勧請しました。京都には清麻呂公を祭神とする護王神社があり、古くは氏子が護王神社に参拝し神符を受けて当社に納める習慣があったと言われます。「中宮さん」、中宮神社は、奥畑地区にまつられる神社である。奈良時代に清麻呂が京都から愛宕明神を迎えて、寺の氏神としてまつったのがはじまりとされ、その後鎌倉時代には土地を支配した愛洲氏によってまつられた。当時は桧造りの社殿が建ち、流鏑馬などもおこなわれたという。現在では、やぶさめ鳥居と拝殿、石垣を積んだ上に小さな社があるだけだが、秋祭りのころには出店が並び、餅まきでにぎわう。以前は境内の相撲場で、近郷近在の男たちがぶつかり合い力を競っていました。
磐上神社(いわがみじんじゃ)
佐向谷に沿って300m遡ると左手山麓に磐上神社があります。明治時代、東側に鎮座した立岩明神を合祀。さらに大久保平にあった小祠を併せ祀りました。紀伊続風土記に「立岩明神は大石を神として祀る祭礼11月15日」と記されています。明治末に川上神社に合祀され、後に再び迎えられて現在地に鎮座しています。少彦名神を祀る農耕の神で、疱瘡の神としても尊ばれました。
宝満寺(ほうまんじ)
屋行久(奥州藤原秀衝の弟、秀勝)が建立、開山は絶照和尚。由良・興国寺法灯派の末寺でした。天正13年(1585)、秀吉の紀州攻めで焼失。その後、文禄年間に再建。臨済宗本山妙心寺に所属します。江戸末期、四国八十八箇所霊場を開きました。当時は四国霊場を持つ寺は稀でした。
千光寺(せんこうじ)
今から1,200年前、和気清麻呂(733~799)が大切にしていた鷹が死にました。その遺骨を三つに分け、紀州の高尾山と、都の高雄山と郷里の備前の高尾山に分けて葬ったそうです。その時紀州の高尾山には千光寺を建て、都の高雄には神護寺を建て、手厚く弔ったと言われています。その後、豊臣秀吉の紀州攻めにより焼失。麓に小さな堂を建てましたがこれも焼失。平岡の地に移り、この地にあった西光寺を合併して現在の千光寺が建てられました。それ以来、千光寺は近西国礼所二十五番となり、「名にうてし鷹尾の山に来て見れば、もみじ色づく千光りの寺」と詠われています。鷹尾山(現在:高尾山)千光寺は、高尾山の山すそに建つ臨済宗妙心寺派の寺院です。旧上秋津小学校(現:秋津野ガルテン)のそばから、竹林がある坂道を少し登った小高い場所にある。山門をくぐると、正面に本堂、右手に庫裡、左手に鐘楼などが建っている。

本堂に掛かる、色鮮やかな群青の力強い文字で記した「高尾山千光寺」の額、山岡鉄舟の筆となります。本尊は観世音菩薩で、行基の作と伝えられています。言い伝えによれば、この寺の起源は約1200年前の八世紀にさかのぼる。建立したのは和気清麻呂とされる。これも寺伝だが、清麻呂は京都と岡山、そして和歌山の三つの高雄山に寺を建て、飼っていた鷹の死を悼み、骨を埋めて弔ったのだといわれています。
千光寺がいまの場所に建てられたのは、江戸時代になってからのことで、創建当初は高尾山の中腹、標高300メートルほどのところにあったとみられる。宗派は天台宗で、創建時は七堂伽藍を有した大きな寺で本堂山門のほか、僧堂、尼堂、(あか)堂、鐘楼などが建ち並ぶ大きな寺であった。山岳修験者をはじめ多くのひとたちの信仰の寺であった。しかし、天正年間の1500年代終わり、豊臣秀吉の紀州攻めによって堂塔はことごとく灰燼に帰した、と寺伝は語る。現在の建物は、改築から100年も経っていないが、高尾山を借景としたたたずまいが美しい。